H2O 〜FOOTPRINTS IN THE SAND〜

第十一刻「弘瀬」
その目は、死に囚われ、全てを拒むときに暗闇とともに閉じられ
生を想い、全てを受け入れるときに開かれる


その目で何を見るのか
何を選ぶのか


それは――――


母親の死に囚われてしまったことで琢磨の瞳は閉ざされてしまったということかな。
アバンがいきなり音羽がびっくりですよ。
母親の死に囚われているシーンでも音羽が出てきたりと、やはり内面世界での救い手は音羽になってしまうのか。


本編はもう何つーか壮絶としか。
こりゃ演じる側は泣くしかないわな。
何もかもを背負おうとするはやみを見ていたら、マジカルおとはイベントで言っていた「はやみは全てを受け入れる」という言葉が思い起こされた。
琢磨の悲しみを、村の人々の悲しみを取り除こうとして全てを受け入れようとしている。
そんなはやみを助けようとするゆい様がまた良い感じで。
6話ではやみの本質を知ったからこそ、はやみの芯の部分を知ったからこそ、
傷ついたはやみを今は助けてあげられるんだというのがわかって、もうこれだけでグッとくるわけですよ。


さて、前回予告で出ていた「僕が信じた全ての嘘」
それは“現時点では”1話ラストから琢磨の目が見えるようになっていたということ。
だけど、海での写真は琢磨は目を閉じているし、ノートの文字はぐちゃぐちゃ、
そして写生会の絵は琢磨の深層意識を表しているかのように混沌としたものだった。
何が嘘で何が真実なのか。
あくまで、琢磨自身は変わっておらず、必要なときだけ音羽が見せてあげていたのか。
それとも、本当にそう思い込んでいただけなのか。


……そんなことを考えていたんだけれど、
http://anime.webnt.jp/blog/h2o_update/2008/03/post_66.html
これを見ると、琢磨が音羽の言葉を基にして脳内補完していたのが正しいのだと理解できる。
目が見えるはずなのに、時計の音声を確認するシーンはおかしいしね。
あそこはもっと疑ってかかるべきだったんだ。やられた。
イベントやブログ等で言われていた「1話から見直すとまた違った見方ができる」という言葉。
せいぜい、ほたるや音羽に関する伏線が散りばめられているのだろうとしか思っていなかったけど、
こういう仕掛けを組み込んでくるとはねぇ。


はやみを助けることで、琢磨は過去の死を乗り越えるられるのかもしれない。
でもそれは、本当に乗り越えたことにはならないんだと思う。
はやみと母親を混同しているし、あの場を収めただけで村長たちが納得するとも思えない。
どういう落としどころにするのかに期待。
この終着点がしょうもないものだったらがっつり評価落ちるぞーッ(笑)
だけど、すっごい楽しみでもある。気になって仕方ない。
……やはり20日の先行上映会に行くべきなのだろうか。


「全部受け入れて、死に囚われないで。
 そうすれば君の目は、君の心は――」
アバンの言葉と、琢磨の深層世界でのこの言葉。
死を追いかけているから死から抜け出せない。
ならば、死を受け入れることで琢磨の目は見えるようになるはず。
「母親」を助けたと思い込んでいるのを正してやり、母親が死んでいるのだということを琢磨に受け入れさせることで初めて、琢磨は死を乗り越えられるとかそんな感じかしらー
あとはまあ、琢磨を助けてやれるのが「はやみだけ」というのはちょっと嫌かな。
ほたるを始め、おじさんにはまじにゆい様に真紀。
みんながいてくれたから、琢磨も死を受け入れられたんだという展開になってほしい。
ああ、でも今回のほたるのビンタはほたるがいなければ駄目だったというシーンか。
ラストシーンは琢磨も本当に目が見えるようになり、そしてあの風の吹く丘ではやみと二人で風車を回してほしいものだ。